専門家や介護経験者が自らの介護体験から思うことを綴る、「わたしの介護体験」。今回は長く看護師、保健師、教育研究職として働き、現在は高齢者介護を研究する川畑さんに「介護と仕事」をテーマに執筆いただきました。
こんにちは、川畑と申します。私は大学を出たあと保健所の保健師として勤めていました。数年後に縁あって看護系の短大の教員となり、その後留学などをへて大学の教育・研究者としてほぼ定年まで勤めました。大学へ残ることも可能でした。でも、母の介護をした経験から日本の介護保険制度の欠陥も知り、介護が必要な状態になっても住みやすい地域づくりに貢献したいと思い自律した働き方を選ぶことにしました。
大動脈解離という心臓の病気で倒れた母を私が介護したのがもう10年近く前になります。わずか3年間でしたが、仕事を続けながら介護をしなければならなかったことは、私にとっては人生最大の危機であり、同時に多くの学びを得た機会でもありました。
ここで、今仕事を続けながら介護をしている皆さんへ、仕事を辞めずに介護を続けるためのメッセージがあります。それは、自分犠牲は誰も幸せにしないということと、看護師さんと介護士さんを味方につけよう、ということです。この二つについてこの記事ではお話をしたいと思います。
<ライタープロフィール>
川畑 摩紀枝/自治体保健師→看護系大学の教育研究職→海外留学(PhD)→国際機関→看護系大学の教育研究職。2022年3月大学を退職後、独立した研究者として高齢者の研究を継続中。介護が必要になった時に、助け合えるコミュニティづくり(ビジネス)の仕組み作りにこれから挑戦。
自己犠牲は誰も幸せにしない
親の介護は子供の責任というのは日本の伝統的な価値観です。これは大家族の多かった昭和の時代に形成されたものです。しかし現代でも依然として多くの人が共有していると思います。日本の介護保険制度も家族の介護を前途としてできています。
そこで、問題になるのは自分が仕事をしている時、仕事を選ぶのか親の介護を優先するのか、ということです。実際は、選択の余地なく介護離職する人もたくさんいると思います。
しかし、私は仕事を続けたいのであれば、あらゆる方法をとってでも、それを貫いて欲しい、安易に自分を犠牲にしてほしくないと思っています。それはなぜかというと、自分が我慢してしまえば、相手にも我慢を求めてしまいます。それが、虐待へとつながっていく可能性があるからです。
私にも仕事か介護を迫られた時があります。
母の術後の創が感染をおこし、完治するには全身麻酔を使った手術を再びした方がいいと言われた時です。これは、2つの意味で大きな負担がかかります。一つは、母にとっての身体的負担が大きいということ。もともと肺機能が低い母の場合、一度人工呼吸器を装着するとそれが一生そのままになる可能性が大きく、母が一番望まない状態になる可能性があること。そして、もう一つは、そのことにより、私の介護負担が増えるということです。
何度も職場に電話をかけてきて説得しようとする医師に対して、私は診療所まで訪ねていき、はっきりと言いました。「母は手術はしません」。でも医師は私が拒否することに驚いて、何度も「お母さんのためなのです」と言いました。それに対し私は「私は母の手術のために仕事を休むことができないのです」と言いました。それでもなお態度の変わらない医師に、私ははっきりと「私にとっては母の手術よりも自分の仕事のことが大切なのです」と言いました。先生は少しびっくりとした感じでおられました。きっと、私のような意見を持つ家族ははじめてだったのかもしれません。
冷たい娘のように思われるかもしれませんが、私はあの時の選択を今でも間違ってはいないと思っています。母が望んでいない手術で辛い思いをするのを見るのは耐えられないこともあります。が、それよりも、自分が「犠牲になった」という気持ちを持っては母の介護を気持ちよく続けられるとは思えませんでした。当時は気づきませんでしたが、私が仕事で多忙であったにも関わらず、最後まで母の介護を続けられたのは、このように自分の権利を優先したからこそだと思います。遠方で仕事をしながらも、私にできる最良の介護を続けることができたのです。自分の権利を護れない人は、他人の権利を護ることはできないのではと思います。
看護師さんと介護士さんを味方につけよう
次は看護師さんと介護士さんを味方につけようということです。家族が少なくなった今、家で介護をすると、介護をされている人の住む世界はとても狭いものになってしまいます。訪問してくださる看護師さんや介護士さんと家族のような関係づくりをすることができると、高齢者の方の世界が広がり、QOLが高まります。結果として、仕事をしながら介護を続けやすくなります。
私はこれについては、特養のスタッフの方に助けられました。私の母の場合には、私が電車で通勤に往復6時間もかかる遠方で仕事をしていたこともあり、比較的スムーズに特養に入れたのです。介護が始まって半年で再就職したのですが、その時良いタイミングで特養の住人にしてもらえたのです。
最初は、特養に移ることが決まった時、母は家で生活できないことを知り愕然とし、しばらく泣いていました。しかし、数週後には母はなんとか特養に溶け込んでくれました。
これは母の社交性もありますが、スタッフの方が本当に母を家族のように接してくれたからなのです。私も、週に1回は特養へ通い、母と一緒にご飯を食べてスタッフの方と情報交換をしていました。母は少しずつ特養の中でも役割をもらい、最後は本当に生き生きと過ごしている様子でした。
最期の看取りの時は、在宅でと思い一度母を自宅へ連れて帰ったのですが、一月ほどしか持たずに特養へ帰りたいと言いました。母は「ここは終のすみかではない」とぼそっと言ったのです。確かに、家では私と母が二人だけになりますし、私は仕事のことがあり家ではいつもイライラしています。日中は家政婦さんが見てくださいましたが、それは今の特養のスタッフと築いたほどの信頼関係はありません。母にしてみたら、スタッフや仲間と過ごした特養の生活こそが「家族」であり「居場所」であったのだと思います。
最後は無理を言って特養へ戻してもらい、母はまた生き生きとした生活へ戻っていきました。看取りの時も私だけでなくスタッフ全員が見守ってくださって、あたかも大家族に見守らたような、母にとっては最高の最期になりました。
私は実は最初は、一人で「介護は完璧にこなしていこう」と意気込んでいたように思います。そのため、最初の頃はケアマネさんや看護師さんとの関係もギクシャクしていました。しかし、それは無理であるばかりでなく、母にとっても良い環境ではありませんでした。家族が少なくなった今、特に私の場合のように母一人子一人であり、それも仕事で日中いないと母の社会的な広がりはほとんどなくなってしまいます。また二人だけだと、密室介護となり、虐待へつながる可能性もあります。
周りにある人的資源を大いに頼って、介護される人の環境を整えていく、つまり周囲の人との関係の構築も介護をする上での重要な要素だと思います。特に、介護をしながら仕事を続けていく上では、とても重要なことだと思います。
ということで、私の介護体験が皆さんにとって少しでもお役に立てれば幸いです。
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